飛鳥時代とは、その名前が示す通り、まるで天翔る鳥のように、文化や政治の面で躍動的な動きを見せた時代だ。おおよそ7世紀から8世紀初頭までを指し、歴史的には古墳時代から平安時代へと移行する過程の一部を占めている。
中央集権による国家体制
この時代は、まるで織物のように、多くの変化が絡み合い、新たな模様を生み出していく。その変化はあらゆる方面に及んだ。政治制度が大きく変わり、中央集権的な国家体制が整備され、仏教が大いに発展し、また、大陸との交流によって新たな文化や技術が次々と導入された。
飛鳥時代の政治の舞台となったのが、現在の奈良県にあたる飛鳥地域である。ここでは、豪族たちが力を競い合い、国の形を模索し続けた。そして、その結果として生まれたのが、天皇を頂点とする中央集権的な政治体制である。
この時代には、大化の改新という大きな政治的改革が行われた。これは、天皇の権力を強化し、豪族の私有地を国有地に変えるなど、社会全体の秩序を大きく変えるものだった。これによって、中央集権的な政治体制が確立され、それは日本の国家形成の基礎を作り出した。
また、飛鳥時代は、仏教が大きく発展した時期でもある。仏教は、政治と密接に結びつき、国家の安定と発展を祈るための宗教として重んじられた。また、仏教を通じて、建築や彫刻、絵画といった芸術が発展し、また、文字による歴史記録が増えていった。
さらに、飛鳥時代は、大陸との交流が盛んな時期でもあった。その交流を通じて、中国の唐の文化や制度が導入され、日本の文化や社会に大きな影響を与えた。これによって、古墳時代の信仰や社会制度は次第に変化し、新しい形の文化や社会が生まれていった。
しかし、飛鳥時代の魅力は、その変化や発展だけではない。この時代は、まるで大河のように、激しく動きながらも、その中に深い静寂と底知れぬ深みを秘めている。その深みは、この時代の人々の思想や信仰、生活や感情、そして彼らが目指した未来への願いを表している。
飛鳥時代、それは過去の世界の中で、とても重要な役割を果たした時代である。その世界を理解し、その深みを探ることで、我々は自分自身を見つめ直し、そして過去の世界から学ぶことができる。
しかし、それは一方で、挑戦でもある。その世界を理解し、その深みを探るためには、多くの知識と理解が必要である。それはまるで、深い森を探検するようなもので、その先には見知らぬ世界が広がっている。しかし、その森を進んでいくことで、我々は新たな知識と理解を得ることができるだろう。
飛鳥時代、それはまるで鳥のように、時空を超えて飛んでくる歴史のメッセージだ。そのメッセージを解読し、その世界を理解することで、我々は新たな視点を得ることができる。そして、その新たな視点から見た世界は、きっと我々に新たな発見と理解を与えてくれるだろう。
聖徳太子 | 十七条の憲法と、仏教の浸透
聖徳太子、即ち厩戸皇子(うまやどのみこ)は、飛鳥時代の中期(7世紀)における政治家であり、法王ともされる仏教僧でもあった。彼は日本の初期国家形成における中心的な人物であり、その影響は法制度の構築、宗教と政治の融合、国際関係の発展など、多岐にわたる。
まず最初に、聖徳太子は十七条の憲法(604年)を制定し、それにより政治の理念と統治の道徳的基準を定めた。十七条の憲法は「和を以て貴しとなす」という理念を掲げ、倫理的な規範に基づく政治を推進した。また、官僚制度の確立とともに、各地方に役所を設置し、中央と地方の統治体制を整えるなど、統治体制の整備にも大いに寄与した。
次に、宗教の面での影響を見ると、聖徳太子は仏教を積極的に受け入れ、政治と結びつけて国家統治に役立てた。彼自身が経典の著述や翻訳に携わり、寺院の建設を推進した。特に四天王寺や法隆寺など、現在でもその名を知られる寺院がこの時期に建立された。仏教は国民の精神的統合を図る手段として利用され、また、統治者の権威を神聖化し、統治体制を安定化する役割も果たした。
さらに、聖徳太子の時代には、日本と朝鮮半島や中国との間の交流が活発化した。彼は遣隋使を派遣し、中国の隋との交流を深めることで、文化、技術、制度などを積極的に取り入れた。これにより、文化面での中国からの影響が深まり、政治制度や法制度、文化技術の面で日本の国家形成に大きな影響を与えた。
以上のように、聖徳太子は日本の国家形成と法制度の確立、仏教の導入と普及、そして国際交流の拡大において、大いにその影響を及ぼした。聖徳太子の存在とその業績は、日本の歴史や文化に対する理解を深める上で欠かすことのできない重要な要素である。
法隆寺は世界最古の木造建築
法隆寺は7世紀に創建された、聖徳太子ゆかりの寺院であり、創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされている。古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。
十七条の憲法
それぞれの条文を誰でも理解できるように要約すると、以下のようになる。
- 和を尊重せよ。
- 仏教を敬うべし。
- 天皇の命令を受けたら謹んで従うべし。
- 役人は礼儀を重んぜよ。
- 賄賂をもらってはならぬ。
- 悪を懲らしめ、善を勧めよ。
- 人それぞれに任務があり、それを果たすべし。
- 役人は早く出勤して遅く退出せよ。
- 信頼は義務の基本。信頼があれば何事も成し遂げられる。
- 怒りや恨みを捨て、人々の意見に耳を傾けよ。
- 功績と罪過を明確にし、賞罰は公正に行うべし。
- 国司や国造は、民衆から無理な徴収をしてはならぬ。
- 役人はお互いの職掌を理解し合い、協力せよ。
- 役人は嫉妬するべからず。
- 私利私欲を捨て、公益のために働くべし。
- 農民が農業に専念できるよう、彼らの労働時間を考慮せよ。
- 重要なことは独断で決めず、議論を尽くすべし。
これらの原則は、今日でも有用な教訓とも言える。
大化の改新
645年、権勢を誇っていた蘇我入鹿、蝦夷(えみし)親子を中大兄王子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が誅殺した「乙巳の変(いっしのへん)」が起こる。直後に即位した孝徳天皇が「改新の詔」を発令し、公地公民制など律令国家の礎を築いたとされている。この改革は、中大兄皇子と中臣鎌足によって推進された。
大化の改新は、日本の飛鳥時代における大きな政治変革であり、その特筆すべき点は以下の3つといえる。
①政体の変革 | 大王制から天皇制へ
一つ目は、政体の変革である。それまでの「大王」制から「天皇」制への移行が図られた。これは、政治の最高権力者である天皇が神聖視され、権力の中心を天皇に絞ることで、政治権力の集中と統一を図ったことを示している。具体的には、大化2年(646年)に発布された「改新の詔」により、それまで豪族が私有していた土地と人々を天皇のものとする「公地公民制」が定められ、中央集権的な国家体制が確立された。
②法制度の整備
二つ目は、法制度の整備である。大化の改新は、法的規範に基づく統治を確立するための取り組みでもあった。その最初の一歩として、大化2年に「改新の詔」が発布され、天皇の意志が法として具現化される仕組みが作られた。これにより、政治が法的な原則に基づいて行われるようになった。
改新の詔(かいしんのみことのり)
「改新の詔」は大化の改新と呼ばれる政治改革の一部として出された命令で、その内容は中央集権的な政治体制の確立と公地公民制度の徹底をうたっている。わかりやすく要約すると以下のようになる。
- 公地公民制
土地と人々は国家(天皇)のものであるとする原則。これにより、天皇の中央集権化が進んだ。公地公民の原則に従って、朝廷は班田収授法に基づき人民へ口分田を与え、租税を納める義務を課した。この原則は、701年に制定された大宝律令にも継承され、律令制の根幹原則となった。しかし奈良時代に入ると三世一身法や墾田永年私財法により、人民による土地の私有が認められると、土地の公有という公地公民の原則が次第に形骸化していった。そして土地私有によって荘園が盛行すると公地公民制は崩壊し、公地公民を原則とする律令制も瓦解への道をたどることとなる。 - 国郡制度
中央からの統治を可能にするため、日本で最初となる首都を設置。畿内や国・郡には、国司・郡司・関所を設置し、地方には斥候(辺境警備兵)・防人(西方警備兵)などの警備兵や駅馬・伝馬などの連絡手段が設置された。それまで、地方政治についてはその土地の豪族に任せていたが、これからは地方行政についても中央から国司や郡司を派遣し、天皇が管理、統治することとした。これにより、地方豪族の力を抑え、中央政府による地方支配を強化した。 - 班田収授法
戸籍に応じて口分田を班給する制度。この制度は、日本の律令制の根幹制度の一つであり、班田を耕作する者は、収穫物から一定の割合(田租は面積を基準としその公定収穫量の3%)を国へ収納し(輸租)、残りは自らの食料とすることができた。戸籍・計帳に基づいて、国家から受田資格を得た貴族や人民へ田が班給され、死亡者の田は国家へ収公された。 - 租庸調の税制
国民に課された租税制度のことを言う。租(稲の収穫)・庸(労役)・調(物納)の三種の税を定めた。租は、班田収授法により与えられた田地からの収穫物から一定割合を国家へ納めるもので、主に諸国において貯蔵された。庸は、布を中央政府に納めるもので、主に正丁(成人男性)に課せられ、それらを都に運ぶ運脚の義務があった。調は、絹・布・糸や各地の特産品を中央政府に納めるもの。この制度は、日本古代社会において重要な役割を果たした。この税制により、国家の歳入が確保され、中央集権体制の維持が可能となった。
上記の四つの政策は、大化の改新が目指した国家形成の基礎となったものであり、それぞれが中央集権化、公平な土地分配、安定した歳入など、国家の運営にとって重要な役割を果たしていた。これらの改革により、天皇を中心とする国家体制が形成され、その結果として日本初の国家としての「日本」が出現したといえる。
③官僚制の確立
三つ目は、官僚制の確立である。大化の改新以降、豪族の私有地であった土地と人々が公地公民とされ、その支配と管理が天皇と官僚によって行われるようになった。これにより、官僚が重要な役割を果たすようになり、後の律令制のもとでの官僚制の基礎が築かれた。
日本初の元号 | 大化
大化の改新の目的は、古代日本の政治形態を変革し、中央集権的な政府機構を確立することにあった。その過程で、新しい時代を象徴する元号として「大化」が選ばれた。
「大化」という元号は、日本最初の元号とされ、孝徳天皇の即位にともなって、645年(皇極天皇4)6月19日から用いられた。『尚書』、『漢書』、『宋書』などを出典とする命名とされる。「大化」とは、「限りない徳をもって他を導くこと」を意味する名詞であり、『書経』大誥の「肆にわれ大いにわが友邦の君を化誘す」が典拠とも思われ、「余は大いにわが友邦諸国の君主たちを教え導くのである」という意味の、天子の広大な徳を人民に及ぼすことを宣明した元号といわれている。
簡素な理解として、「大化=大いなる変化」と、捉えることもでき、この時代の改革の精神を象徴していた、と言えるだろう。
これらの改革は、それまでの豪族中心の政治から天皇中心の政治へと移行するための大きな一歩であり、日本古代国家の形成に大きな影響を与えた。大化の改新は、日本史のなかでも特筆すべき政治革命であったと言える。